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まとめ

予想される質疑応答をまとめました

・なぜ現役で家を出れる東大早慶に行かなかったのか→第4志望の一貫校に入らされ、塾や予備校などに通って他校生と競い合うチャンスもなかったのでやる気失せてた。

東大寺には行けたのではないのか→東大寺は昔からある併願校だから偏差値が高いだけでいつ洛南や西大和に抜かれるかわからないし、奈良で完結する生活を脱するのが中学受験の大目標だった。星光は東大寺に蹴られまくってるし、灘は家から通えないので、甲陽への希望度は高かった。東大寺と西大和の比較で言うと、洛南東大寺は僻地にあるあからさまな併願校であるのに対して、西大和は大阪に近いので甲陽星光同様に値崩れの心配がなく、甲陽星光ならまだしも定期で大阪にも行けないいつかは値崩れするのも明らかな東大寺に行くために勉強を続ける気にはなれなかった。

・なぜ同志社大学に籍を入れたのか→現役で受かったところに籍を入れさせられた。父親は私大信者だったので、大阪市大に受かっていても蹴って私大に行って仮面浪人することは可能だった。

・なぜ2浪もしてセンター83%だったのか→大学生という身分を利用して1年京都でニートしていたから。2浪目しか勉強していない。一浪目はセンター60%。なお二浪目は通学はちゃんとしてほとんど出席はしている。勉強はしていないので2外とかは全部落としたけど。

・なぜ3浪しなかったのか→同志社をストレートで卒業する学費生活費と差が出ると進学はできなかったから。親戚の家から通えたところで、学費などを作るのに3浪1留は避けられないので、2浪で落ちた段階で文系の選択肢は消えた。

・なぜ1浪目から勉強しなかったのか、一発勝負では落ちる可能性は考えなかったのか→最悪の場合センターで決まる後期神戸法に入りなおし実家から通おうと思っていた。これをしくじる可能性は考えていなかった。神戸法に行けば東大落ちだから仕方ないと思えるし(神戸法は後期が定員の1/3を占めている)、ローで東大などへ行きお茶を濁せると思った。

・なぜ早くに親戚に相談しなかったのか→生活をギリギリに切り詰めて自炊してまで働きながらの3浪というハードゲームをこなす気にはなれなかった。一度世間並の暮らしをしてから再受験するか、就職するか考え直すつもりだった。決断がついたのは精密機械の期間工に行ってから。それからの1年半は単に考えが甘くなっていた。2年半もふらふらしたために焦る気持ちを失っていた。また、無理して4浪の年齢で受かって親戚の家から通えたところで学費などを作るのに1留は避けられないので、年齢に拘っても仕方ないと思ってしまった。

なぜ

なぜ私が超多浪することになったのかを記します

まず私が育った家庭環境について

いわゆる典型的な望まずに産まれた子で、父親は比較的社会的地位も高く、子供をつくらないと世間体が悪いので仕方なく1人作ったという感じで、産まれる前から母のお腹に赤ちゃんがいることによる不都合でキレまくり、0歳の頃から身体的虐待を受けていました。

一方母は子供も高い地位にしたいと考えていて、小学生時代は母に塾に入れられ、父に辞めさせられを繰り返していました。

小6の初め頃私は自分の持ち偏差値のやや下で、定期で大阪にも行ける甲陽学院に入りたいと思っていましたが、当時私が通っていた塾では3科目校と4科目校の偏差値表での表記が別で、4科目校でTOPの東大寺が灘と同じ、2位の大阪星光が甲陽と同じに表記されていたので、開成落ち巣鴨だった父は甲陽、星光には何かと難癖をつけて行かせたくないと言っていて、東大寺を落ちたら西大和に行けと言われ3科目校用の対策は取らず通常コースのみで東大寺や西大和を目指すということになってしまいました。

しかし私の頃まだまだ灘甲陽信仰が関西では根強く、4科目校は灘甲陽を諦めたり落ちたりした人が行くところというのが一般的な認識で、すっかりやる気が失せ一流の括りに入っている一番下の西大和でいいやと思い半年以上宿題もなにもせず、結局東大寺も受けさせてもらえずに抑えと西大和だけ受けて西大和に入ってしまいました。

しかしいざ西大和に入ってしまうと周囲がみなバカに見え、一切勉強しなくてもどうせ浪人してから取返せるんだからと思い6年間一切勉強せずずっとクラスで下から2番目か3番目だったのですが、現役で同志社大学にかかったので入学して新卒ギリギリの2浪の年齢になってから学費生活費の変わらない国立(祖父母の家から通える東大、実家から通える阪大、神戸大)に入りなおすということを思いつきました。

結果、センター数2B爆死、これによって得点率が87%から83%に下がり、後期神戸大(法)というセーフティーネットを失い、前期東大(文Ⅰ)と、進学させてもらえないが後期九大(法)を記念受験し、同志社大学を卒業して就職してもバカみたいなのでさっさと親と縁を切って働くかと思ってフリーター生活がはじまりました。

最初の1年はわけもわからずいろいろなバイトをしていたのですが、肉体労働にもなれたので地方の工場にバイトで入って就職するということを思いつき、まずよく知られたトヨタ期間工に行き、当然ながら仕事がキツくてやってられないなと思ったのですが、いろいろ調べて次の年本命の精密機械の会社に期間工に行きました。ここははっきり言ってありとあらゆる意味で平均的な同志社大学卒業者を超える待遇と環境で、ここで就職する気が起きなかったら進学できなくとも新聞屋に行って再受験するしかない、それで都会で塾講師でもやろうと思っていました。

こうして23歳の年齢で新聞屋に行ったのですが、進学もできないのに勉強などやる気が起きず、期間工後の失業保険期間も含めて2年近くダラダラしてしまいました。さすがにヤバいと思い、ダメ元で親戚に相談した結果、親戚も私のことを心配していたようであっさり親戚の家から通えることになり、7浪の年齢から働きながら再受験を始めることになってしまいました。